日曜日的人々
手抜きなんて当たり前。いざ、サンデーライフ。
という訳でスーパーカー解散から2ヶ月が経とうとしてます。
スーパーカーの解散に何も意味を見いだせないのは僕だけでしょうか。
ロッキンオン・ジャパンやスヌーザーが扇ぎに扇いだ、
くるり・スーパーカー・ナンバーガールの同期組を中心とする00's初頭の日本のシーン。
なんだか数年しか経ってないのに、すごく昔の事のような、幻のような感覚をおぼえます。
ナンバーガールの解散は本当にこたえた。
丁度その頃日本の偉大なロックンロールバンド、ミッシェル・ガン・エレファントも解散した。
これもはげしくへこんだ。
この二つのバンドは四人のメンバー誰が欠けても成り立たないバンドであったし、
それ故のオリジナリティを持ったバンドだった。
そしてフロントマンである向井秀徳とチバユウスケの持つ音楽的地平に
一部のメンバーが置いて行かれるという結末も悲しい一致だった。
『NUM HEAVYMETALIC』と二枚の『サブリナ』を聴くと、今でも悲しく鳴ってる音がある。
くるりは岸田繁という強烈な才能と、佐藤正史という優秀な演奏家のツートップを中心とする
ストイックな不定形音楽集団として認知されつつある。
はじめからモックンがついて行けていなかったのは明らかだった訳だし
岸田繁がモックンと別れる決断をした時にくるりは一度死んだのだ。
ではスーパーカーは何を背負い、どんな意志を持っていたのか。それが全く見えてこない。
後半はまるでナカコーのソロプロジェクトのようであった。バンドとしての必然性も失っていた。
音楽誌COOKIE SCENEは今回の事を解散ではなく解体と評したが、まったく本当に解体どころか空中分解という感じだった。
僕がこのバンドに惹かれなかった訳じゃない。
『JUMP UP』を聴いた時は、マイブラの全く新しい解釈だとひとりテンションをあげ
「STROBOLIGHTS」が発表されたときは確かに「何かが変わる」という感覚を得た。
日本にも、かつてマンチェスターで起きた奇跡のような、本当の意味の音楽的ムーブメントの到来を現実に感じる瞬間もあった。
あれは本当に何だったんだろう。
くるりは昔とは比べものにならないほど完成された楽曲を作っているし
向井秀徳はザゼン・ボーイズでナンバガの時よりもさらに混沌としたファンクネスと共に
この世の無情節を鳴らす。
「ワンダーフォーゲル」と「ストロボライツ」という二枚のレコードは、その後数々のフォロワーを生んだ。
でも、あのとき確かにあった胸の高鳴りは、失われた。
いまここで『HIGHVISION』を聴いて改めて思うのは、もうこのレコードの時点で“何かが終わった後”だという事。
実際、『HIGHVISION』がたぶん、一番いいアルバムだと思うのだけど、ただ、平熱だ。
スーパーカーが“平熱のバンド”であるのとは別のタームの平熱を感じてしまう。
結局、彼らが生んだ“熱”が残したものは、原子力発電所の側で行われている陳腐なイベントだけだったのか。
スーパーカーは僕らになにをもたらしたんでしょうか。未だに整理がつかない。